blog 1987 インド・ネパール放浪記竏窒Q

26年前のインドですから、それはそれは、トラブルの連続です。

(というか、最近のインド事情がわかりませんが。)

 

電車・バスは時間通りの来ないのは、当たり前。指定乗車券を買っても席はなし。歩いていると「バクシーシ」って施しを求めてくる。彼らにとって、富める者から施しを受けるのは当たり前・・・

カルカッタから、電車でバラナシーへ。ヒンズー教徒の聖地ですね。ガンジス川の右岸は建物がこれでもかって建ってますが、左岸は荒れ地です。これは、左が不浄という、彼らの思想からきているんでしょう。なので、食事も右手だけ食べますし、逆に排泄には左手でナチュラルウォーターウォシュレットよろしく、って感じです。

そこで、見たものは

沐浴をしているヒト、洗濯しているヒト、歯を磨いているヒト、ただただ、祈っているヒト、そして火葬場で焼かれているヒト・・・・・・

生死がまさしくそこにありました。今もなおその光景は忘れられません。

輪廻転生・・・・・彼らはそこに、死にに来ています。そこで死ねたら本望、生まれ変わればキット違う幸せな人生が待っている・・・・

カースト制度は表向き禁止されているけれども、その当時、今もなおその制度な根強く残っている気がします。

その後、国境を超えて、ネパールのカトマンズそしてポカラへ・・・・・そのあまりにもゆったりした空間・時間に、わたしは少し、ほうけたように、日々を過ごしていました。バラナシーでのことがあまりにも衝撃的だったのかもしれません。

その後アグラーでタージマハールを見たり、ニューデリーで宙に浮く大道芸人を見たり、そして明日帰るというタイミングで、ニューデリーの街中で「中野縲怐vって私の名前を日本語で呼ぶ声が・・・・

「えっ・・・・・」そこには、大学時代の友人が立ってました。

日本でも、大阪でも会わないのに、なんでここなん?って感じでした。でもその出会いがなかったら、私はインドから出国できなかったんですね。

というのも、初めての海外ですから、空港税というものを払うことをすっかり失念して、ルピー貨幣はすっかり使い果たしてしまっていました。彼と出会わなかったら・・・・と思うと、少しぞっとしますね。

まぁ、何らかのトラブルはあって出国してたと思いますが、

社会人になる前の、23歳の若造がその旅旅で感じ体験、体感し、その視界で見たモノ、臭った臭い、すべてが原点になっている気がします。

学生から社会人への転機での、エポックメイキングな旅になったことは、間違いない「インド・ネパール17日間の放浪記」でした。