blog 1983 何でもお手伝いセンター Vol.2

私は、その日から「関大前雀荘」通いから、「武庫之荘・何でもお手伝いセンター」へ通うことになります。

携帯電話等無い時代ですから、机に固定電話1本あるだけのワンルームでの生活が始まりました。

とにかく、「何でもお手伝いセンター」の存在を知ってもらうために、チラシを配りまくりました。マンション、アパートの郵便受けに入れるポスティング。通勤客相手に、武庫之荘駅前でチラシ配布・・・の日々。

そして、初めての何でも屋の仕事・・・・・・

場末のスナックの「換気扇洗い」でした。

とにかく友人と2人でそこに向かい、換気扇を取り外し、洗剤はアメリカ製のもので特殊な洗剤と言って、ゴシゴシ油汚れを取りました。今だから言えますが、普段そんなことしたことが無い二人です。誤摩化しながら小1時間で終えて、元通りに取り付けて、二人で報酬が3,000円だったと思います。

が、

その後クレームの電話・・・換気扇がちゃんと取り付けてられなくて、落ちてくる。すぐに舞い戻って平謝りしながら、事なきを得たのが最初の“仕事”でした。

その後も、ビール工場の瓶詰め、化粧品のデモ販売、引越の手伝い、ラウンジへの客呼び込み、テキ屋でのイカ焼き、牛乳配達、他人の披露宴のアトラクション出演、獅子舞パフォーマンス、吉本新喜劇の大道具の運搬運転手等等。

様々な仕事が舞い込んできました。

とともに、

スタッフも増えていき、友人・知人がまた知人をと・・・・・

登録スタッフだけで、200名以上になっていきました。

 

そして、初めてのイベントの仕事以来がありました。

日本テレビ系の事業「高校生クイズ選手権大会・近畿大会」

学生アルバイトを10人ほど、集めてよ・・・・・ということで、場所は忘れてしまいましたが、「ロープマン」の役割でした。そう、YesかNoかで左右に分かれる時のロープマンが私がこの業界で初めて経験したイベントスタッフだったのです。

その後も様々な仕事をこなしながら、20歳の青春を謳歌していました。(続)