石ころの裏側
1987年4月私は小さなイベント会社に就職した。
社長と社員2人の有限会社だ。
そもそも、その当時イベント会社自体が認知されていないし、まず、就職先として候補には上がらないのが当たり前だった。そういう意味においてセールスプロモーションとしてのイベントの創成期だったのかもしれない。その後、ジャパンエキスポなどの博覧会ブームが起こり、展示会やキャンペーンなどイベント花盛りとなる。
そんなタイミングで私もイベントに出会いその仕事に魅了された一人である。
教育実習後に、はっきりと教員への道を諦めて、イベント業界で働こうと、イベント会社のアルバイトをしながら、曲なりに、就職活動もしたものだ。冷やかし半分で大手の広告代理店やテレビ局を受験したが、コネのない私は受かるはずもなく、アルバイトをしていた何社かのイベント制作会社から、ありがたいことに「うちに来いよ」と誘われたのだ。
その頃イベント業界は、人手不足だし、多少の経験者は優遇されたものだ。
ただし、社会保険に加入してない会社とか、なんかもぐりっぽい会社とか、業界的には社会的地位は多分低かった気がする。またそこで働いているスタッフも結構ユニークというか、一癖も二癖もあるような人物ばかりだし、とにかく社会的常識を持ち合わせてない輩ばかりだった気がする。
業界も、そこで働いている人も、今で言う「ブラック業界」なのだ。ただ一方ではお酒を飲み、仕事を楽しむおおらかさがあった気がする。
良い言い方をすると、クリエイティブな業界であり、常識にとらわれないことで、素敵な仕事が生まれると言うことも一理あったようだ。
そんな中、一応何社かのイベント制作会社の方々に話を聞いて、どこにお世話になるかを決めようと、
ある人は「中野君は真面目やからこの業界向いてないで」と言われた。そうか不真面目じゃないと生きていけない業界か、とは思わなかったけれども、妙に納得した覚えがある。
そして、結局お世話になることになる会社の社長と話をした時に「中野君、仕事はなぁ、石ころの裏側にいっぱい落ちてるんや、選ばなければ仕事は山ほどあるで」と正確な言い回しは忘れたけれど、そのようなことを私に言ってくれたのだ。その貪欲さや選ばない潔さに、「ここでお世話になろう」と誓ったものだ。
その時は意識をしていなかったが、「将来、独立して自分自身でやっていきたい」という思いが、心の奥底に潜んでいたのかもしれない。
なので、その社長の言葉が自分ごとに聞こえて共鳴したのだろうと思う。
そもそも、私の父親は大工さん、それも一人で渡り歩く我儘な職人さんだったし、祖父も戦前満州で事業をやっていたようだ。父方も母方もサラリーマンがいなく、事業家か、職人か、漁師さん、そんな家系の影響なのか、私もいつしか独立志向の考え方になっていた気がする。
とまれ、小さなイベント会社に就職させていただき、
働き始めるのだ。何でも屋さん時代とは違って、全てが新鮮であった。大道具さん、音響さん、照明さん、特殊効果の会社があることを知ったのも、社会人になってからだ。
初めて、携わったのがアメリカのダラスから招聘した「アメリカンジュークボックス」というミュージカルの舞台進行アシスタント。アメリカ人の舞台監督のアシスタントなのでコミュニケーションは全て英語、通訳のスタッフもいてたけれども、ボディランゲージでなんとか日々を過ごしたことを思い出す。
2週間ほどの公演だったろうか、1日2回という日もあり、結構キツイ本番続きだったけれども、休日はキャストのメンバーたちと草野球に講じたり、飲みに行ったりで、全てが新鮮だったし楽しかった日々だ。
ある意味、社会人として初めての現場がこのような特別なイベントだったことは、とてもラッキーだった気がする。最近はイベント自体に成果を求める風潮があり、なかなか楽しめることが少なくなってきている。小さなイベント会社のスタートダッシュは順調だったけれども、その後は「社会はそんなに甘くない」ことを嫌というほど知るハメになる。