未来予想図は絵に描いた餅だったのか・・・
震災の年にスタートした弊社・株式会社ニューズ
私は専務取締役として、業務に携わっていくことになる。
社長は、もう一つのイベント会社M社のM社長。
M社と弊社は、グループ会社ではあるけれども、取引先を分けていく戦略。
昨今は崩れてきたけれども、当時は取引先である広告代理店を渡り歩くことは
あまり良しとしない風潮があった。
簡単に言えば、トヨタの車の宣伝をしながら、ニッサンの車の宣伝はできないのと一緒だ。
電通から受注しながら、博報堂からも受注するのはある意味、御法度であった。
そこの窓口を分ける意図もあり、M社とニューズは棲み分けをしながら、仕事を増やしていく戦略。
実質、ニューズは私が切り盛りしなくてはならないので、営業から制作、売り上げ目標も含めて
マネージメント業もやっていたが、なんせ初めての経験ばかりでサラリーマン時代とは視点も
動き方も変わっていくものだ。
仕事を受注するためにはどうすればいいか。
仕事を推進していくためにはどうすればいいか。
複数の仕事を受注し、推進するためにはどうすべきか。
一つの案件をこなしていたサラリーマン時代とは全く違う時間空間が流れ始めた。
とにかく、正解はないので、手探りで前に進んでいた気がする。
しかしながら、世は失われた30年時代に突入し始め、不景気風が吹き始めていた頃だ。
棲み分けて仕事を増やす戦略が、うまくいかなくなっていく。
その当時は会社を立ち上げるよりも、会社を存続させることのほうが、難しいということを
まだわかっていなかった気がする。
「未来予想図」は描いたけれども、全くその通りにならないことに苛立ちを感じていた。
うまくいくことより、うまくいかないことの方が本当に多かったなと。
今、振り返るとそう思う。