教育実習

1986年(昭和61年)私は関西大学の4年生。教員免許を取得するために、必要な講義の単位を落とさないよう、それまでとは違って大学へは真面目に通っていた。これほど毎日大学に通ったのはいつ以来だろうか。まぁ、不真面目な学生だったことは否めない。大学の勉学よりも大切なものがあると信じていたし、今から思うと若気の至りと言えよう。とまれ、なんとか教員免許だけは取らないといけない。

そんな中、2週間の教育実習に行くことになる。実習先は、母校摂津高校へ。科目は社会科。

私の担当先生は、高校生時代にも習ったことのある倫理社会の女のM先生。はっきり言うと苦手な先生だ。とにかく、理屈っぽい。

なんせ私は、高校生時代は体操部でガチガチの体育系学生だったし、理屈よりも体を動かすことが第一だったので、馬が合う訳がない。

しかし、私の担当であるかぎり指導を受けざる得ない。

私が受け持ったクラスは当時1年生の後輩たち。今考えると7つしか年齢が違わないけれど、その頃の7つは結構離れていた気がする。相手は中学を卒業してまだ4ヶ月余りの15歳の生徒たち。

私は、大学時代に実に様々なアルバイトをしたり、学生企業を経営したりで、それなりに社会経験もあると自負してたので、7つ年下の後輩たちからするとお兄ちゃん的な存在だったのではないだろうか。

授業は「現代社会」

通り一遍の授業は面白くないし、教育実習という名のもと、自由に課題を選んでも良かったので、「恋愛」をテーマにした授業をした覚えがある。

「果たして同棲することは良いことなのか?悪いことなのか?」みたいな、今考えたら、赤面ものだが、当時は真剣にその課題をみんなで考えた気がする。

ほぼ、覚えていないけれども、授業としてどれだけ伝わっただろうか。決して上手じゃなかったのは確かだろう。

担当の先生からは「中野くんは、好かれる先生になれると思うけれども、それが良い先生とは限らない」みたいなことを言われた記憶がある。

確かに、自分でも「甘いなぁ」とは感じていた。

当然、理想の先生像など明確にあったわけではないし、そこまで深く考えていたわけでもない。

実際に教壇に立ってみて、黒板に文字を書きながら40人近い後輩たちから見つめられていた時に、私は多分おどおどしてた気がする。自信など全くない。試されていたのだろう。言葉でどれだけ伝えようが、その言葉が薄いことを気づかれていたのだろう。

先生は知識の伝道師ではなく、生きる知恵を一緒に考えて行かなくてはいけないと思う。

知識は、参考書や塾で学べば良い。

知恵はそこには書いていないし、塾にはない。

当時はそう思っていた。そこには真摯で理想高き意志があった気がする。

「その後・そして今」の教育業界は言わずもがなだが……

そして、

結局、私は教員試験を受けずにイベント業界で働くことになる。

世の中を知らずに「先生」と呼ばれることに違和感を感じたのだ。教育実習でM先生に言われた言葉、先生としての意思が足りないことに自分自身、気付かされたからだろう。

あれから、40年近く経って、今教壇に立てるかと問われたら、やはり「否」と答えるだろう。生きる知恵を一緒に考えるほど確固たる自信があるだろうか、まだ迷っている。

そして今、教育実習の時に、「合唱発表会」で後輩たちと一緒に歌ったハウンドドックの「アンビシャス」を聞くと、なぜか当時の日々が塩辛く思い出される。

みんなもいい歳になっているだろうな、7つ違いだけれど、今では同世代と言ってもいいよな。