夢工場87 

大学卒業後、就職させてもらった小さなイベント会社には、結局2年弱の短い期間しかお世話にならなかった。1989年1月に退職し、別の会社に移籍した。

しかしながら、今考えると、「小さなイベント会社」で学んだ様々なことが今の自分の原型であることに気付かされる。

ミュージカルの舞台アシスタントのあとは、インテックス大阪と東京・晴海での同時開催の「夢工場87」フジテレビ主催の真夏のイベントだ。当時最新式の技術を駆使したエンターテイメントパビリオン。私が受け持ったのは、ひらけポンキッキで人気の「はれときどきぶた」という作品をモチーフにしたパビリオン。コンピューター制御されたコンテンツを楽しみながら、シアターでは実際に役者さんの芝居と天井から豚が降ってくる仕掛けで、大いに人気を博したものだ。役者さん、ナレーションコンパニオン、テクニカルオペレーター、運営スタッフ、正確な人数は忘れたが、100人以上の人たちが関わっていた。私は、そのスタッフのまとめ役のリーダーとしてそのパビリオンを運営させていただいた。右も左もわからない若輩者ではあったけれども、周囲のみんなに助けていただきながら、50日近い会期を全うできた気がする。

とは言え、40年前なので、もう時効だろうけれども、人気パビリオンになったが故に、事件が起こった。

それは最終日のこと、当時は整列で閉会時間を見越して並んでいただいていた。当然、最終日もそれを考えて、整列止めを行ったのだが、遠方から来ていたお客さんからクレームがついた「このパビリオンに入るために、遠くから来たので入れて欲しい」と。しかしながら、ひと組のお客さんを入れると、入れない他のお客さんからもクレームが来ることは必須なので、「誠に申し訳ないですが、時間になりました」と断ったスタッフ。その時、クレームを言ってきたお客さんが、スタッフに手を出したのだ。私はその場にいなかったがすぐに駆けつけてことの経緯を把握して、事務局に報告に走った。事務局はできれば穏便に済ませたいようであったが、私は、「警察に届けよう」とスタッフに言ったとき、

「中野さん、せっかく50日、みんなで一緒に頑張ってきたので、ここで事を荒立てなくないので、警察には言わないでくれ」スタッフの心意気を感じたので、結局は話し合いで手を出したお客さんとも、和解した。あの時の殴られたスタッフの想いは今も忘れない。ルールはルールだけれども、そのようなお客さんの思いにも気を配りつつ、事前にトラブル回避できることもあるだろうと。

トラブルに学ぶことはたくさんあるけれども、やはりプロとしては、トラブルが起こらないように、様々な状況をシュミレーションしていないといけないとその時に強く思ったものだ。

夢工場87が終わって、今度はアメリカ村に「キャンパス株式会社」という若者が集まる企画をする会社に出向になる。ちょうど心斎橋ビブレが開店するにあたって若者をどう取り込んでいくかという趣旨だった気がする。アメリカ村の自由の女神が立っているマンションの一室にそれはあり、日々、入れ替わり若者たちが集まってくる。しかし、そんな簡単にアイデアが浮かぶはずもなく、夕方になれば、アメリカ村をぶらぶらしながら、仕事をしているのか、遊んでいるのかわからない状態。そのうち、皆、家に帰るのも惜しくなり、マンションで雑魚寝状態。酔っ払っては泊まっていく奴など、なかなか、業務推進とはいかない。結局、キャンパス株式会社は3ヶ月持っただろうか、忘れてしまったが、言えることは、大人が考えるほど、若者に期待をするなということだ。やはり自らやろうと思わなければ、なかなかこちらの思う成果は生まれないということだ。

夢工場でワンチームになれた50日間と、キャンパス株式会社ではワンチームになれなかった3ヶ月間。

自ら創り上げてきた気概とは裏腹に、大人から言われて消極的な気分ではその成果は全く違ってくるものだ。それは若者だけではなく、イベント制作における基本中の基本かもしれない。お客さんの視線、出演者の視線、主催者の視線、その視線が同じ方向に向いたとき、そのイベントは成功に向かっていると言えるのだろう。