何でも屋さん
私の仕事はイベント制作。様々なイベントを裏方として支えること。
既にこの仕事を生業にして40年が経とうとしている。その原点は、大学時代に遡る。
「法律違反以外のことなら、なんでもやりますよ!」私は大学2年になって、友人と「何でも屋さん」なる会社を立ち上げた。今でいうベンチャー企業というやつだ。しかしながら、なんのノウハウもない我々ができることは「元気に、明るく、力持ち!」要は「困っているあなたをお助けしましょう」というお節介な商売というのが本当のところ。
世の中わからないもので、実はこれが大当たり、1984年、昭和59年といえば、今と違って、インターネットなどない時代、ましてやスマホや携帯電話もない、「困ったことを解決する」のは、当時タウンページと呼ばれていた黄色い電話帳一つ。誰に、どこに、どう頼めばいいのかがわからない時代。そんな時代の要請にハマっていたのだろう。最初こそ、暇を持て余していたけれども、そのうち、1台しかない黒電話が鳴りっぱなし。
「換気扇が壊れたから交換してほしい」「化粧品のデモ販売をしてほしい」「吉本新喜劇の大道具を運んでくれないか」「披露宴を盛り上げてほしい」「獅子舞になってほしい」「ライブツアーの運転手をしてほしい」「ビール工場にアルバイト10人ほどきてほしい」などなど、ありとあらゆるお願い事が舞い込んできた。我々もここぞとばかりに、友人知人総出で依頼をこなしていく日々。今でいうところの人材派遣のようなものだ。
仕事が集まるところには、人も集まる。
徐々に、組織ができてくる。人が集まってくると、元気だけでは、立ちゆかない。管理体制を固めないといけない。突っ走っていた最初の頃とは随分勝手が違ってくる。不平不満も募ってくる。若いということは、その分、我慢も足りない、世間を知らない。喧嘩も絶えない。
何かをやり始める時は、「やるぞ!」の気持ちがみんなをひとまとめにするが、「やり続ける」うちにこれは違うんじゃないか、あの方がいいのでは、色んな壁にぶつかってしまう。小さな壁であるうちはいいが、やがて大きな壁が立ちはだかり、若さだけでは乗り越えられないことを知る。
そんな時期、私たち自身が企画実行したイベントが大失敗する。1500人乗りの大型客船をチャーターして1000人ツアーを企画制作。淡路島と徳島を繋ぐ大鳴門橋が開通した1985年、淡路島で「くにうみの祭典」という博覧会のようなイベントが開催された。そこに、若者を集めてオールナイトで客船で盛り上がろう!というイベント。我々スタッフは四方八方、集客を募るのに走り回った。
しかし、盛り上がったのは最初だけ。集客のノウハウもない我々に1000人集めることは、あまりにもきつい現実だったのだ。
1000人ツアーどころか、100人ツアー。
結果、莫大な借金だけが残った。勢いだけで進むことの難しさと愚かしさを嫌というほど実感した。
結局、2年弱で「何でも屋さん」は解散。私は、就職活動をしながら、イベント制作の専門会社でアルバイトをし、ノウハウを勉強することにした。勢いだけでは、成し遂げられないことを実感した故の決断だ。
必死に取り組んだこと自体は、失敗体験も血となり肉となっているけれども、それが仕事になったとき、やはり失敗は許されない。
イベントは成功して当たり前。
あの2年にも満たない「何でも屋さん」の経験が、今、40年この業界で働かせていただいている私の「原点」として活きているのは確かである。