何でもお手伝いセンター なんでもやりました

大学2年生から3年生、私は、浪人生活を経てますので。20歳21歳のまさしく、“世間的には大人”になる年齢です。
しかしながら、まだその感覚は全くなく、いわゆる青春時代を謳歌していました。
何でもお手伝いセンターという、「依頼があれば、法律に触れること以外は基本やります」という姿勢でしたので、「?」と思うような依頼も多々ありました。
見も知らぬ人の披露宴で「盛り上げるアトラクションを何かして欲しい」・・・・・
結局、一世風靡セピアの「前略、道の上より」を褌締めてやったこと。
バク宙をやって盛り上がったのを思い出します。
他には、当時吉本花月が、梅田・難波・京都とあり、新喜劇の出し物が順番に各花月でありましたので、
その出し物の大道具(机、椅子、植木など)や小道具を次の花月へ運んだものです。
吉本新喜劇は何度も無くなりそうな憂き目にあっていましたので、予算も限られたんでしょうか・・・
「新喜劇の大道具」の運搬は思い出深い仕事の一つです。
中には、いわゆる美味しい仕事もありました。
その頃、大鳴門橋が開通し、淡路島が結構注目されていました。なので、ペンションなどもたくさんあり、大阪・神戸・京都から、若い観光客を呼び込もうと結構取材があったそうです。
ある新聞社の『淡路島のペンション体験紹介コーナー』に「仕事」で参加させて頂きました。
美味しい料理を食べて、温泉に入って、素敵な部屋で過ごす「仕事」です。我々がモデルです。
今尚、あの取材は本当に良かったのかどうかは、不明ですが・・・・
当時、そんな「淡路島」で開催されていたのが、『くにうみの祭典』(1985年4月21日縲鰀8月31日)です。
淡路島は関西人にとっては、近くでありながら、夏場はなかなか行けない島でした。
夏休みは、フェリーで何十時間待ちが当たり前の状態でした。
なので、大鳴門橋が開通したとは言え、大阪からはやはり船です。
この時期は、船で行く「くにうみの祭典」ということで、船上ラジオ公開放送など、実に様々なイベントを船を活用し開催されていました。
我々は、スタッフとして、参加させていただきました。
その後、瀬戸大橋、明石海峡大橋、しまなみ海道など、橋が完成するごとに、博覧会が開催されていきます。
JAPAN EXPOなど世はバブルとともに博覧会ブームが到来していきます。
我々も、それが大きな荒波だと気づかずに、巻き込まれていきます。