縲怎求[ツ竏窒P 日本万国博覧会縲鰀
物心ついた頃は、大阪市の東北に位置する東淀川区北江口の市営住宅で暮らしていました。
淀川、神崎川、安威川等、川に囲まれた、まだまだ開発されていない町でした。
淀川、神崎川、安威川等、川に囲まれた、まだまだ開発されていない町でした。
今は、立派な住宅地として、奇麗な高層住宅が沢山ありますが、
当時は、平屋ばかりで道は砂道、草木が生え放題の草むら、あちこちに沼地や田んぼがあって、アメンボ、ゲンゴロウ、ザリガニ等、そしてモグラなんかもいました。それだけでも、自然溢れる地域でした。
そんな町で、私は幼年期・少年期を過ごしました。
まさしく、「3丁目の夕日」の世界です・・・・
初めて、世間を意識したのは、「日本万国博覧会」です。
1970年3月14日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市の千里丘陵で開催された国際博覧会です。
私の、狭い家に、知らない大人たちがこぞって泊まりに来たのです。親戚はもちろん、親戚の知り合いまで・・・・・
当時、泊まるホテルが無いくらい、日本中から、世界中から大阪に人が集まっていたのでしょう。
その度に、私はアメリカ館の「月の石」を見に、何時間も並んだ気がします。
業界的には、この万博がイベントの原点という人もいます。
昭和30年代、社会自体が、経済台頭期、建設ラッシュで浮かれているこの時代、九州は大分出身の私の父は中学を卒業して、「大工」として修行をしてたそうです。
当然、私が生まれる前の話ですから、父から聞いた話になりますが。
昭和14年生まれの父は、九州・大分県佐賀関一尺屋という、目の前が海の拡がる家で生まれ育ちました。兄弟は10人ほどいてたようですが、戦争や病気で亡くなったそうです。
その頃は男3人、女1人の4人兄弟姉でした。
ほとんどの男衆は「漁師」になったそうですが、「船酔い」が嫌な父は単身・大工の職人になるべく、上阪したそうです。
父の生き様を少し顧みると、そこに今の私のルーツの一端が有るように、思えます。